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戦雲急、遂に解散

1940年(昭和15年)

広島ロータリークラブは、戦雲急を告げる1940年9月6日(昭和15年)解散した。発足以来9年目、7代の会長を経て45 名の会員を擁していた。

クラブ誕生の前年、満州事変が勃発、その6年後の蘆溝橋事件に端を発する日中戦争突入、時局は日独伊三国同盟、第 2次世界大戦へと急転拡大する。

当時、最も強力な国際性を持つロータリークラブへの風当たりは強く、防諜国防の軍事体制に好ましくないとされた。

「昭和12、3年ごろでも、憲兵が事務所または会長、幹事の宅へ来て、その情報を求め、米国からのつまらぬ照会があっても逐一報告させられるなど、厄介なことになっていた」

静岡クラブの解散を機に、全国各地ロータリークラブの解散が続く。広島ロータリークラブは9月6日、精養軒で緊急総会を開き解散を決議した。8月13日の第425回例会が最後となった。改組か解散かの岐路に立った暗黒の時代、会員45名、軍国の波に抗し切れなかったその心労は、大変なものであったろう。こうして、戦前9カ年の歴史の幕は閉じた。

火曜会設立-原爆

1941年(昭和16年)

解散した各地のロータリークラブは、引き続き名を変えて会合を行っていた。

東京水曜会、大阪金曜会、神戸木曜会というようにである。広島でも1941年4月 1日(昭和16年)会員41名で「広島火曜会」を結成した。毎週1回集会を催し、時代に適応したロータリー精神の体得と普及に努めた。

会長その他の役員は置かず、世話役として堀田笎三、松井繁太郎、田中康道の3人がこれに当たり、田中康道の東京転出後は藤井徳兵衛が尽力し、終戦直前からは専ら松井繁太郎、加計敏吉が担当した。

1945年8月6日午前8時15分(昭和20 年)魔の瞬間がきた。広島に投下された人類史上初の原子爆弾は、一瞬にして20 数万の人命を奪い、広島を焦土と化した。火曜会では一挙に9名の会員が犠牲になられた。肉親を失った会員もまた多い。広島火曜会事務所その他にあった器具、書類などが全部焼滅したのはいうまでもない。

黒川巖は、この恐るべき悲惨と試練に屈せず、熱心な同志とはかって、その1 カ月後には火曜会を再興する。会長は置かず黒川巖と藤井徳兵衛が幹事として、献身的な努力を続けた。

会合は毎月2回に決め、食糧難の折から各自弁当持参で東洋工業株式会社と、五日市にあった黒川巖の私宅で会合を持った。

その後、例会場は1946年(昭和21年)古田町高須の「滿津井」、その翌年秋から日本銀行会議室に移った。1948年(昭和23年)からは毎週1回の例会に復帰した。

原子爆弾の犠牲になられた会員9氏

堀田笎三 松井繁太郎 粟屋 仙吉 加計 敏吉 稲葉 実 吉田 義夫 松本栄一郎 立石大三郎 井東三代造

堀田 笎三(昭和9〜11年会長)
堀田 笎三
(昭和9〜11年会長)
松井 繁太郎(昭和11〜12年会長)
松井 繁太郎
(昭和11〜12年会長)